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大橋晃太さん

[写真:大橋晃太さん]

1998年1月からMDS(骨髄異形成症候群・血液難病の一種)の治療を受けた大橋さんは、寛解を維持して約5年。「『完治』という言葉は主治医から出てきませんが、自分としては既に『完治』した気分で生活しています。」と語る。毎日飛び回っている彼には、5年前の影はもう見当たらない。

大橋さん(以下、敬称略):
病気が分かった原因は、ある日たまたま転んでしまって首を痛めたことからでした。始めはそのうち治るだろうと思っていたんですが、ちっとも治らなくて整形外科に行ったんです。そうしたら全然気付かなかっただけですごい貧血で、すぐに入院になってしまいました。入院したら急に熱が40℃も出て、3週間下がらなかったんです。入院してすぐに病名の告知はされました。でも、そんな状態だったので治療も出来なかった。3週間位たって熱が下がってからやっと抗がん剤の治療を始めました。
岩本:
普通の毎日から、急に入院・告知なんてさぞびっくりしたでしょう。抗がん剤治療を受けることをためらったりはしませんでしたか?
大橋:
それが思ったよりびっくりはしなかったんです。ちょうど自分の入院の一カ月ほど前に友人を交通事故で亡くしたばかりで、死をリアルに感じていた時期だったからかもしれません。「ああ、今度は自分が死を受け止める番だな」といった感じで落ち着いて聞いていた様に思います。
岩本:
大橋さんの場合、抗がん剤のみで骨髄移植をされていないと聞きましたが、なぜですか?
大橋:
実は、初めは移植をする予定でした。5人ドナー候補の方がいたんです。移植が出来るという希望が僕を支えてくれたのは確かでした。そうでなければ、あんな辛い治療には耐えられなかったと思います。でも結局は5人とも移植が出来なくなってしまって、、、その時はさすがに落ち込みましたし、すごく悔しかった思いも正直言ってありましたね。そんな時に僕を慰めてくれたのは同じ病棟の仲間たちでした。移植は年齢制限もありますし、ドナー自体が見つからない人もたくさんいます。そんな移植が初めから出来ない患者さん達が、本当に一生懸命僕を励ましてくれました。移植をしなくても、こんなに元気になった人もいる、といった例をいろいろと教えてくれたんです。あれは本当にありがたかったですね。
岩本:
結局、移植を受けられないと分かった後も抗がん剤の治療をして退院したんですか?
大橋:
はい。その時はなぜ移植を受けられないのか悩みました。5人も候補の人がいたのにどうして?ドナー登録されていたって、大切なときに断ってくるんじゃ意味がないとか、その時はやっぱり考えてしまいました。でも、退院して患者会でドナーさんの側の苦悩とか、体調が不良で提供できなかった話を聞いたり、家族の反対にあって説得できずに辛い思いをしたとか、いろいろ聞く中で少しずつ「仕方がなかったんだ」と思えるようになってきました。こんな風に、相手の立場に立って物事を見つめられたのは、いろいろな立場の方と話しあうことが出来たからです。このように患者とその周囲の人達とが話し合える場は、本当に必要とされている、貴重な情報交換の場だと思います。

病院で最後の抗がん剤治療を受けていたとき、大橋さんは一人の医師と出会った。それが今の患者会の理事長である田中医師である。「患者会を作りたいから一緒にやらない?」と誘われた大橋さんは、こんな医師もいるのだということに驚いた。

大橋:
最後の治療のとき、自分に出来ることを何か始めたいと思い、いろいろな人に自分のアイデアを話したんです。ちょうどお世話になっていた東大病院の血液内科の壁に絵を飾りたいと思って、一人で動き始めたところでした。その僕の思いを田中医師が人づてに聞いて、声をかけてくれました。僕自身は田中医師に診てもらった経験がなかったので、患者の自主的な活動に興味を持ってくれる医師がいたことにまずびっくりしましたし、出来るのかどうかも不安でした。でも、田中医師は、僕が活動を始める原点になった病気の仲間たちから絶大な人気があった医師だったんです。それを思い出して、これも何かの縁なのかもしれない。皆が、僕に力を貸してくれているのかもしれないと思って一緒にやっていくことにしたんです。田中医師がいなければ、患者会や僕がやりたいと思っていたいろいろなことが形になるのは難しかったでしょう。忙しい診療の合間を縫ってこのような活動に参加してくれることは本当に感謝しています。
岩本:
個人でまず動き始めたそうですが、どうして始めようと思ったのか、その辺りをもっと詳しく聞かせてください。
大橋:
一番のきっかけは、入院中に知り合った同じ病気の仲間の言葉です。入院中は規制が多いですから、同室の方々と「もっとこうだったら良いのに、こんなことが出来るようにして欲しい。」といったことを話し合っていました。例えば、何ヶ月、時には半年以上も入院していると病院の壁がとても殺風景に見えてくる。絵の一つでも飾ってあって、時々それが変わったくれたら、慰められたり気分転換になる。とか、季節を感じられるイベントや、何か楽しいと思えることが病院内にあるとそれを楽しみに時間を過ごせるし、参加することを目標に頑張ることが出来る。とか、いろいろありました。退院したら、そんな小さなことから始めて、少しでも入院している患者さんの役に立ちたい。そのために頑張ろうって皆で言っていたんです。でも、その時の仲間のほとんどは病気で亡くなってしまって今はいません。僕一人が生き残ってしまったように思います。僕が今していることのアイデアは、僕だけが考えたことではありません。全て、たくさんの患者さんが考え、教えてくれたことです。僕だけが生き残った意味は何なのか、僕に出来ることは何かを考えたとき、今まで僕を支えてくれた皆、そして今はいなくなってしまった皆の意思を出来る限り実現することだと思ったのです。僕という“道具”を通して、亡くなった方々の思いを少しでも今につなげていければと。
岩本:
大橋さんも来年の4月から医学部に編入されると聞きましたが、やはりこのような活動が入学のきっかけになったのでしょうか。
大橋:
はい。やっぱりそうですね。僕は大学院で医用福祉工学を専攻していたので、医療機器を開発するエンジニアと、“ユーザー”である現場の医療者との架け橋になる人材の必要性を強く感じていました。このような研究からの動機に加えて、自分が医師になる気持ちがさらに強くなったのは、患者会に寄せられたある相談がきっかけでした。

患者会への相談は、ある白血病の女性からだった。まだ子供のいない彼女は発病してすぐに化学療法を行い、その効果で現在体調は落ち着いていた。退院が近づいて社会復帰を考えたとき初めて、彼女は化学療法が不妊症を引き起こすことを知った。女性として、結婚して子供を持つという夢は、彼女の中に強くあった。もしも化学療法を受ける前にその事実を知らされていたら、自分は今と同じように治療を受けていただろうか。彼女は悩んだ。

大橋:
治療をしている医師は、多分この女性にとって一番大切な「いのち」を救うことを第一に考えていたと思うんです。でもこの女性にとって、子供を生むということは「いのち」と同じように大切な問題だったのです。でも残念ながら、そこのところに医師の関心は向けられていなかった。命を助けることはもちろん大切です。でも、それと同じぐらい、その人がこれからどうやって生きていくか、その後の生活のために必要なことは何かということを一緒に考えることも本当に大切です。
岩本:
何よりも命が大切。と医師が言い切るとき、それは誰が決めることなのか考えて欲しいですね。患者さんが、その人自身の人生の中で何を一番大切に考えるのか、優先順位をつけるのは医師ではなくて患者だということをもう一度心にとめておいて欲しいと思います。
大橋:
そうでないと、治療を受けたあとに後悔してしまいます。もしかしたら別の治療法があったのではないか、不妊にならない道があったのではないか、と悩むことは本人にとって悲しいことですし、自分は間違った治療をしたのかもしれない。と後悔の念を持ってしまうことにもなりかねません。引いては、医師と患者の信頼関係の問題にまで発展していくでしょう。 このことがあってから、僕は患者さんの気持ち、何を一番大切にしているのかを共有できる医師になりたいと強く思いました。今でも、もちろん患者の気持ちを分かってくれる医師は大勢いると思います。ただ、これは全く感情的な理由ですが、僕自身が医師となり患者さんの治療にあたることを通じて、亡くなった方々に教わったことを、今病気と闘っている患者さん達の幸せにつなげていきたいのです。

彼のように、いろいろな立場の気持ちが分かる医療者が増えていったとき初めて、日本の医療は姿を変えていくのかも知れない。来春医学部の三年生となる大橋さんは、将来どんな医師になるのだろうか。その頃には医療はどこまで進んでいくのだろう。科学の進歩と共に人間として忘れてはいけないものを持った医療者が、今後もっともっと増えていくことを願ってやまない。

紹介本

生命の贈り物-骨髄移植の現場から-(Amazon.co.jpへ)
[表紙:生命の贈り物-骨髄移植の現場から-]
秋山秀樹 監修
こまごめの会90 編・著
リヨン社
好きになる免疫学(Amazon.co.jpへ)
[表紙:好きになる免疫学]
多田富雄 監修
萩原清文 著
講談社サイエンティフィック