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佐藤 春輝さん (原発不明がん)「自宅で生きる」

2004年春。何となく風邪が治りにくいと感じていましたが、病院が好きではなく、大したことはないだろうという思いから、そのまま何事もないかのように忙しい毎日を過ごしていました。58歳の私は、建築や鉄・コンクリートを専門とする写真家で、自宅の横に事務所を置いて仕事をしていました。

それでも、風邪は一向に良くなる気配はなく、今まで暑がりで、冷房なしにはいられなかったにも関わらず、あの猛暑の中、冷房に当たると具合が悪くなるという状態が続きました。とうとう秋の終わり、声が擦れてきました。そこで、病院嫌いの私も仕方なく近所の病院を受診しました。

病院ではいろいろと検査をしましたが、結果は「悪いところはなし」とのこと。説明の時は、昨年撮った肺のレントゲンと、今回のレントゲンを比較しながら説明してもらっていたのですが、その時たまたま首の辺りに何か変な物が見えたのです。私は普段から画像を扱っていますので、肺のCTを撮った時にたまたま写っていた首の右側が、前年度と比較して違う部分があることに気付いたのでした。そこで慌てて総合病院を受診することになり、その日のうちに、「原発は不明だが、首の部分に悪性だと思われる腫瘍がある」との告知を受けました。余命は2-3ヶ月と言われ、10日間ほど検査にかかり、それを続けるうちに、みるみる体力が落ちていくのを感じました。昔から病院が嫌いだったこともありましたが、入院してみてしみじみと感じた「教科書通りの治療」に嫌気が差し、今後、入院・手術はしないと決めました。結局、原発がどこにあるのかは分からないまま、8年前友人に紹介された血管内治療を専門としているクリニックへ転院したのは、12月に入ってすぐでした。いざ、血管内治療を開始すると、みるみる元気になっていくのを感じました。

治療をしていく中で私が一番こだわっていたことは、「今任されている仕事を最後までやり通したい」ということでした。病院では余命は2-3ヶ月、つまり年内だと言われていましたが、治療をして具合の良くなっていた私は、あと2年は仕事をしたいと思っていました。実際、今年の3月までは普通に仕事をすることが出来ていましたが、4月に入って体重が減り始め、体調が悪くなっていきました。少しづつ、右の首に痛みを感じるようになり、中旬に入ると、痺れるようにもなってきました。また、首から手・足にかけて、体の右半分に広がっていき、とうとうカメラを持つことができなくなりました。そこでついにカメラマンは廃業しました。でも、だからと言って写真を撮りたい気持ちが無くなったかと言えば嘘になります。今、一番撮りたいのは海の中の写真です。専門は色気のないものですが、並行して海の中の写真もこれまで撮り続けてきました。ダイビング暦は20年以上。やっぱり海が好きなんでしょうね。

5月末、血管内治療が終了しました。右半身の痛みは、ますますひどくなり、どうにも我慢できないものとなっていきました。主治医は、今の病院ではこれ以上の鎮痛は出来ないから、と言って、現在の主治医である野崎医師を紹介してくれました。「一回だけ、野崎医師のクリニックへ頑張って行ってみて下さい。そうすれば、どんな痛みでも往診で取り除いてくれるから」そう言われて、6月4日、どうにもならなくなった体を抱えて、クリニックを訪れました。鎮痛は、クリニックの外来のベットの上で薬を調整しながら行い、丸半日かかりました。

それでも、痛くて体を引きずるようにして来た時とは格段に良くなり、なんとか自分の足で歩いて帰れるようになりました。

実は、痛みが収まらなくなった頃から、緩和ケアへの入院なども考えて、ある程度の用意はしていました。でも、この日痛みが軽くなって、その後、自宅まで医師が往診してくれることになり、野崎医師が「最後まで診てくれる」と約束してくれたので、もう入院はせず、このまま自宅で往診してもらうことに決めました。今はまだ痛いところもあるけれど、残っている最後の仕事を仕上げたり、食事に行ったり、いつもの生活を送っています。往診してもらって痛みを止めることが出来て、その上自宅に居ることが出来る。これが本当の緩和ケアだと思います。こんなに良い方法があるなら、わざわざ入院することはない。そう思っています。

6月もあと一週間で終わりますが、何とか6月一杯で残っていた仕事も終わりそうです。家族には悪いけれど、私はやっぱり仕事人間で、今一番やりたいことは仕事です。自分の一生の仕事なんて格好の良いものではなく、頼まれ仕事ですが、任せられた物は最後まできちんと終わらせたいと思います。その後は、特にやりたいことは無くなってしまいますが、それまで生きていられるかも分かりません。私はリアリストなので、本気でそう思っています。

でも、介護ベットを入れるのは嫌なのです。痛いので起き上がるのが辛いのですが、酸素や介護ベットをいれることは、悪くなっていく一方の病人という気分になります。最後まで普通に自宅で暮らしたいのですから、出来るだけそういった大げさな物はいれたくありません。私は外食が嫌いで、女房が作った物でなくてはだめなんです。以前別の件で入院した時も、病院へ食べ物を持ってきてもらっていたんです。いろいろ自宅で療養することは大変かもしれませんが、毎日食事を作って病院へお見舞いに来ることを考えたら、逆に通わなくてすむ分、女房も楽かもしれません。自宅で点滴したり、治療したりすることも不安はありません。時には点滴に空気が入っていると言って大騒ぎすることもありますが、まあ何とかなりますし、女房は「人事だから気にならない、大丈夫よ」なんてすましています。

家にいれば、友人がたくさんお見舞いにも来てくれます。小学校の時の友人には「僕、明日死ぬから来て!」と連絡したらすぐ飛んできて、朝まで一緒に飲んでいました。5月ぐらいまでは飲んでいたかな?お見舞いと言うと皆で酒盛りになってしまって、まっすぐ歩けないほどでした。ついに女房から友人に、「治るまでお見舞いに来ないで!」なんて言われてしまいました。昨日も、隣の仕事場のトイレ掃除が忘れられていたので、自分でやりました。自分で出来ることはしたいですね。

こうして家で療養できる私は、本当に幸せだと思います。人によっては、自宅のリビングにベットを入れるスペースがない人もいるでしょう。家族がいない人もいるでしょう。今の環境が整っているから、自宅療養が出来るのだと思います。また、何よりも大切なことは、信頼できる医師にめぐり合ったことです。大きな病院の医師は怖かった。声が擦れて出ないと言っても「声は出てるじゃないか!」と怒鳴られたり、がんセンターの医師からは、「あんたはうちから離れたら死んじゃうよ」と言い放たれたり。患者の身になって考えてくれる医師はいなかった。大病院の医師は無責任で、サラリーマンのようですね。一人の患者に時間が掛けられず、組織の中で流されている人が多い。それでは医師ではなく、ただの病気を治す、治療をするロボットのような物でしかない。血の通った人の痛みが分かる人ではなければ、教科書通りの治療しかしてくれない。患者は、一人一人、人によって違うことを許容してくれないのです。看護師も医師と同じで、上から物を言うんですね。上から下に物を言われることが好きだったら、フリーではなく、きっと私はサラリーマンになっていたと思います。でも、基本的に私はそういう物の言い方をされるのは嫌いなのです。

前の主治医と今の主治医が大病院の医師と違うところは、患者の立場に立って対応してくれる、家族のことも考えてくれるところです。必要があれば、医師が直接家族に電話をしてきてくれます。家族のことも心に留めて下さっているのだという気持ちは、とても嬉しいものでした。そういった意味で、両医師とも私にとってはとても信頼できるのです。教科書どおりの治療しかしないのではなく、私自身を良く見て、私にあった治療法を次々と提示してくれることは、希望につながります。選択肢が広がることは、本当に大切なことなのです。そのためには、私がどのような人間かを知らなくてはいかません。現在の主治医は、初めて往診した時に、取り留めのない話をして帰りました。多分、その時に私の性格をつかんでいたのだと思います。大きな病院では、患者さんと治療以外の話をすることは無駄のように言われますが、緊張感を与えずに接してくれて、その上でどのような治療法・薬が必要かを対応して下さるのは、本当に素晴らしい方法だと思います。治療は医師が決めるものではなく、患者が決めるもの。その姿勢を貫きながら、必要な情報を提供して下さる。そして、最後まで共に歩んでくださる医師を私は信頼しています。

このように、信頼できる医師でいれば、自宅でもどこでも治療に不安はありません。信頼関係がある医師を作ること、それが、どこで療養するにしても一番大切なことなのだと思います。

NPO法人楽患ねっと 編