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汲田 真帆さん(卵巣がん 遺族)「僕たちはこれからだ」

私は3年前の秋、48歳の叔母を癌で亡くしました。叔母は姉である私の母ととても仲がよく、お互いの家を行き来していたので、私は従姉妹たちと姉妹のようにして育ちました。両家は家族のように生活していました。叔母には小さい頃からずいぶんと可愛がってもらいました。もうひとりの母のような存在であったと思います。 そんな叔母は、生を終える最期の二十日間を、住み慣れた自宅で過ごし、家族に見守られる中、逝きました。私は、その間、夜間の見守り役としてその最期のときを叔母と共に過ごすことができました。その体験は私の中で大切な思い出として今も強く残っています。

4年前の夏、叔母は腹水でぱんぱんになったお腹を抱えて病院にかけこみました。診断の結果は卵巣癌。他の臓器にも転移が見られ、すぐに手術、抗がん剤治療、受けましたが再発してしましました。通院で闘病を続けるつもりだったのですが、腎不全を併発してしまい、病院での生活に引き戻されてしまいました。「家に帰りたい、家で家族と一緒にいたい」叔母は在宅での治療を強く希望していました。しかし一口に家で過ごすと言っても、いろいろな準備が必要です。電動ベッドなど必要な物品を揃え、医師や訪問看護師、ヘルパーの派遣を頼みました。しかし、ただ一つ問題がありました。それは、叔母が「夜は身内でない知らない人が家の中にいるのは気が張るから、どうしても家には帰れない」と言ったことです。夜間付き添える家族がいない現状を知りながら、敢えてそんな希望を言った叔母は、このまま病院で療養していくというあきらめ、覚悟もあったのだろうと思います。私自身、その後、自分が夜間の付き添いをすることになるとは夢にも思っていませんでした。しかし、病院にいる叔母に会いにいったとき、白い壁に四方を囲まれ、その真ん中でぐったりとしている叔母を見て、はっとしました。もう食べ物を口からとることができず、ただ横たわっているだけの叔母でした。体の横からのびている点滴は、まるで叔母の体を縛っているように見えました。水を少し口に入れただけで苦しそうにもどし始める叔母の姿を見て、私はやるせない気持ちでいっぱいになりました。ふっくらとした優しい笑顔は面影もなく、やせ細ってしまった手を握るたび驚きを隠せませんでした。「これが本当に叔母なのだろうか?」胸がしめつけられるような思いでした。

その頃私は実家をでて、ヘルパーとして働いていました。就職した先は、私が本当に心から願っていた場所でした。これから仕事を続けていきたい気持ちがあった私が退職して家に戻るという決断を下すまでは、正直だいぶ葛藤がありました。けれど「私が手伝うことで叔母の願いが少しでも叶うなら…叔母との時間は今しか過ごせない気がする、このまま叔母を失いたくない」という思いが強く、気持ちは固まりました。夜間の付き添いが見付かったため、叔母は退院しました。家に帰ってきたときの嬉しそうな叔母の表情は忘れられません。その日の空はとても澄みきった青で日の光がさんさんとしていました。病院から戻る車の中で叔母は始終にこにこしていました。叔母は家で毎日を一生懸命生きようとしていました。病院では出来なかったのに、歩いたり、何かを「食べたい」と言うようになりました。摘んできたハーブの香りを楽しみ、愛犬の頭をなでる…私のよく知っている叔母の姿がそこにはありました。そんな叔母の姿を見ることはとても幸せでした。しかし、それでも夜間の付き添いは気をはりつめるため、体がついていかず、正直辛い時もありました。しかし叔母は退院した時、冬まで生きられるかどうか…と言われていました。いつか終わる時がくる、という思いがあったからこそ、辛くても続けていくことが出来たのかもしれません。でも…一緒に過ごした時の叔母の笑顔が今もまぶたの裏に浮かんできます。だから今、心からよかったと思っていますし、この選択に後悔もありません。

退院から二十日目のことでした。叔母は危篤状態になりました。その日の午前二時頃、いつものように検温のため叔母の体に触れると、いつも熱っぽい叔母の体がひんやりと感じられました。呼吸も浅く。脈が弱まっていて、かろうじて手で感じ取れるくらい。血圧は低すぎて計ることができませんでした。慌てて私はすぐ叔父さんに来てもらい、地方に住む祖父母に急いでこちらに向かって欲しい旨を伝えました。そして看護師さんに連絡しました。その時看護師は電話で、「覚悟はされていたんですよね?」と言いました。この言葉は私の胸にこたえました。なぜなら、覚悟しているようで覚悟していなかったからです。在宅になってから驚くほどいきいきと生活を送ってきた叔母の姿を見て「もしかして大逆転もあるのかもしれない!」と思っていた私がいたことに気づかされました。私の心はまだ叔母が死んでしまうということを全然受け入れていなかったのです。「どうしよう、どうしよう…」顔から赤みがひき、手足が冷たくなってきている叔母を前にして怖くて怖くてたまらなくなりました。叔母の体が「死」というものに向かって進み始めたことを認めざるをえない状況でした。頭の中をぐるぐると思いがめぐります。「叔母が死ぬって?死ぬって、私の叔母さんはどこにいってしまうのか?そしたらもう会えなくなってしまうのか…!いやだ、そんなの絶対いやだ!そうなったらひきさかれた従兄弟たちや私はどうなってしまうだろう?怖い!誰か助けて!!」。そう思ったら、まるで天と地がひっくりかえったような、めまいがして、私はその場に立っていられませんでした。それでも側にいる人たちの中で、介護の経験があるのは私だけですし、妻を失うかもしれない叔父さん、お母さんを失うかもしれない従姉妹たち、妹を失うかもしれない母たちの前で、弱気な顔になってはだめだ、今一番苦しいのは叔母さんなんだから、私が泣いてどうする!と自分を奮い立たせるようにしてふんばりました。看護師さんは「今いっても何もすることはできないから」という理由で明け方に来ることになっていたのですが、私は「今すぐに来て欲しいよ!」って心から叫びたかったです。でも言えませんでした。

そこに集まっているみんなで叔母の手足をさすったり体をこすったりして温め続けました。頭が動転していて、そのくらいしか思いつきませんでした。「せめて祖父母たちが到着するまでは…会わせてあげたい」「少しでも長く一緒にいたい」と思いました。すると、明け方になって叔母の体に赤みが少しずつ戻ってきたのです。朝方看護師から連絡をうけた医師もとんできてくれ、点滴して叔母は一時持ち直しました。祖父母や兄弟たちも到着し会うことができました。そして、その日の夕方のことです。家族みんなに見守られながら、叔母は旅立っていきました。「ご臨終です」その言葉を聞いたときはもうなにがなんだかわからないくらい泣きました。だんだん冷たくなっていく叔母の体を肌で感じて、もう戻ってこられないんだと思い悲しくなりました。それは叔母であって叔母ではない、ぬけがらのように見えました。叔母がどこにいってしまったのかはわかりませんが、もうこの体の中に叔母はいないのだということを思いました。「この体を焼いちゃったらお母さんはどこに行っちゃうの?まだ一緒にいたい」と泣く従姉妹達に何か言わなくてはいけないと思い、混乱する頭で必死に考えました。「体は今までお母さんが入っていたところだし、ずっとその姿で一緒にいたからなじみがあるし焼いてなくなってしまうのは本当に悲しいと私も思うよ。でももし神様がお母さんの心(たましい)と体(ぬけがら)のどちらかしか残しておけませんよ、っていったらどっちが一緒の方がいい?」と言いました。二人とも「お母さんの心がいい」と言って泣きました。 それまで私は、死んでしまったらその人のたましいはこの世界とは違う、どこかはるか遠いところにいってしまうので、もう二度と会えないのだと思っていました。けれど実際に叔母が死んでしまった今、そう考えると、つらくてあまりにも悲しくて胸が苦しくなってしまいます。その問いにまだ答えを出すことはできていません。けれど、ただひとつわかったのは、私は叔母と「終わり」なのではなくて「いつでも会える」ということです。叔母が亡くなる時、枕もとでお別れをしていた叔父はこう言いました。「僕たちはこれからだよ」と。私はこの言葉を聞いてはっとしました。死は永遠の別れでないのだ、と思いました。目に見える体はなくなり、声を聴くこともできない…だからこそ注意深く目をそそぎ、耳を澄まして、相手に「聴く」ことが大切なのではないでしょうか。私と叔母もこれから、私と叔母の関係もこれからだと今心からそう思うのです。

NPO法人楽患ねっと 編